2007年05月04日

脆くて、高い、塔。

とある日本国内の空港の免税店で、
レジのお姉さんに韓国語で話しかけられたことがある。
自分が生まれ育った国で、同じ言葉を話す人から、
異国の言葉で話しかけられる。
しかも、何を聞かれているかも理解できない。
本来ならば、彼女とは何の障害もなく意思疎通ができるはずなのに
彼女の「この人は韓国のお客様」という思いこみから、
コミュニケーションの壁にぶち当たってしまった。
当たり前のことが、当たり前でなくなる。
言葉がいかに不自由なものか、たった数秒の出来事で思い知らされたし、
コミュニケーションのすべてを言葉に頼っている自分にも気づかされた。


人間 対 人間、ハート 対 ハート、愛 対 愛の
コミュニケーションには言葉はさほど重要ではないと、
よく言われているし、その通りだとも思いたい。
だけど、言葉に依存しながら生活する毎日からでは
いまいち実感が湧かないのも正直なところ。



「バベル」

話題作がついにやってきた。
菊池凛子(昔の芸名は菊池百合子だと)がアカデミー賞の助演女優賞に
ノミネートしたことから、この映画を待ち望んでいた人も多いことだろう。
私もそのうちの一人。封切り後、すぐにでも観たい作品だった。

舞台は全く接点のない(ように思われる)3つの都市。
モロッコ、アメリカ(メキシコ)、日本。
哀しい出来事が原因で壊れかけた夫婦の絆を取り戻すため、
アメリカからモロッコへやってきた夫婦。
その夫婦の留守中、子どもをみているメキシコ人ベビーシッター。
母を亡くした聾唖の少女と、その父親。
バラバラの都市で、バラバラの人間たち、そしてバラバラになった心が、
モロッコの雄大な自然の中に轟いた一発の銃弾によってつながれる。

激しい音と水の中にいるような静寂、
人工的な光のシャワーと穏やかな自然の表情、
陽気に踊る人々とその後に訪れる孤独。
二面性というか、二極性を随所に配した演出は、
人間の心の様を表現しているのではないだろうか。

この映画では、4言語が画面の中を飛び交う。
英語、アラブ語、スペイン語、日本語、すべてのセリフに字幕がついている。
字幕をなぞって映画を観ていると、おそらくこの映画の「本質」を見逃してしまうのではないかと、映画の途中で気づいた。
言葉が通じない、すなわち想いが通じない、そんなコミュニケーションの危機的状況を、字幕を通してすべて理解しようなんてできることではない。
途中、字幕をできるだけ見ないようにがんばってみた。

数秒ともたない…。
手話で会話している日本のパートでさえも。

たぶん、この映画は、テーマである「コミュニケーションの難しさ」を、観客に問題を投げかけている作品ではないと思う。
観客自らが問題を投げかけることを期待しているのではないかと。


皮肉なシーンもいくつもある。
言葉が通じるはずのモロッコのバスツアーの同乗者とは意思の疎通ができないのに、モロッコの小さな村のおばあちゃんとは言葉を介さずに想いを受け入れあえる。
メキシコに訪れたアメリカ人の子どもたちは、ただ走り回ることで仲間に入ることができる。

破ることが難しい障害と思っていたことが、
実はやすやすとクリアできるものかもしれない。
隔たりのない関係性こそ、危険を孕んでいるものかもしれない。


監督はこの映画について
「人を隔てる壁についての映画を撮りはじめたのに、人と人を結びつけるものについての映画に変わった。つまり、愛と痛みについての映画だ」
と語っている。
posted by さとる at 01:07| 熊本 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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